出だし途中から

昭和43年05月08日 夜の御理解



 (途中から)
 あの熊本から吉田先生が、ご信者さん方33名ですか。団体参拝がございました。でここでゆっくりお話を頂いたり、お茶を差し上げたりして丁度、皆さんが帰られる、私が表へ送り出したところへ、丁度あの中学校の先生方、今日はここに中学生が二人おりますから、その一人の先生が家庭訪問でみえられました。丁度こちらも後片付けが済んでいるというところでしたから幸い。
 そしてその先生が帰ろうとしよったら又、次の先生が見えて、その方の先生が学校であの美術を受けたまわっておると。それでそのこちらに、色々特に陶器が好きな方らしくてあの、見せて頂きたいちうてその、まぁもう一人の先生が案内をしてから、見て回られたんです。で、もうその素晴らしい素晴らしいと言うて、まぁ本当に分かられないらしいんですね。けどもやはりあの素晴らしい、素晴らしい。
 昨日丁度私が、全部こう入れ替えておりましたですから、それをまぁ見て歩かれた訳です。(それで来られる?)この、何ですかね。そこでその思うんですけれども、別に素晴らしい事はない。まぁ例えば陳列の仕方が良いというのならまだ本当かもしれん。その品物が、良いというのはそう何点もありゃしない。どうせ供えに頂いたもんだから、ほりゃ良い物が、例えばどこどこの何何美術館とか、又その美術品のコレクションを金かけてやってるというわけでも全然ないのですから。
 けども何とはなしにただ、まぁ見て楽しいといったようなものがあるだけなんですけれども、それをその先生方がもう非常に貴重な、鄭重な物、良い物として、あの見て帰られたようです。私はそれを思うのに、第一ですね、いうなるほどこのお広前が素晴らしい。置いてある所が、あれが普通の家庭においとったら、何にも、変哲もない物ばっかりでございましょうけれども、ね、置いてある場がいいから、あれが良い物に見えたり、ほんな物に見えたりするわけなんですよ。
 もう本当に私はそれを思い、これを思いして、今日は脇の下から汗の出るような思いがしたんですけれども、今あの、テレビで、「悪名」という何かあの映画があっていました。「勝新太郎」演ずるところの、まぁ現代の親分子分の映画なんですけれどもね。そのあの人は何ていうですか、浅吉かなんかですね。浅吉のいうなら偽者が、ある地方にそのではぶりをきかしておるというので、まぁいうならその偽者退治といったような映画だったんですがね。
 本当にその浅吉という名前を、その人気の出ておる浅吉の名前を語ってそれこそ肩で風を切るようにして町を、そのまぁ荒らしておるというような、そういう映画を見せていただいてから、こりゃもう本当に私のことのような感じがしたんですね。今日のあの骨董品の皆観賞して、感心して帰られた事といい、私の信心内容といい、こんな立派なお広前にちゃんとこうやってでんと座っておるから。
 さぁ熊本辺りから来てもなるほどなるほど、何時来ても生き生きしているとか何とかいうて、皆さんが(傾倒?)して下さるんだけれど。本当に偽者我という自覚を今日はいよいよ強くさせて頂いたんです。その映画最後見せてもらってそれを感じたんです。例えばそれがつまらん物でもです、ね、そこに置いてある場所が良い。少しばかりその、まぁ何というですか、まぁ感覚的にまぁ物をこちらが持っておりますから。
 それをまぁ見えるように飾ってある。それでそれをまぁ(とうれつ?)の中におさまってこうしておれば、それが本当に立派なものだ、良いものだとして皆さんが観賞して帰られる。ああもう本当にまぁ合楽の教会には一千万くらい、美術品、骨董品があるげなと噂では聞いとりましたけれども、見せて頂いて驚きました。そしてこうやって開けるともう、それ又沢山あるんですよね、ある事は。
 なるほど年の中何回も何回もあれが変わるわけなんです。ならそう見ると本当に、いかにも本当な物のようにあるのですけれども、こちらが偽物でありゃ偽物しか集まっておらんのであって。ね、ここん所をですね、私達が果たしてならここで総代だ、幹部だというておる人達が、合楽のお広前というならこの形だけは、見事な中の総代さんであり、幹部である。というから、いかにもそれに相応しい、立派な者かのように人が見てくれるような事にもなって来るだろう。
 時に偽物我と言うようなですね、私は自覚を銘々が持って、勿論本当なものを目指してはおる訳です。お互いが日々。もっと本当なことへ、もっと本当なことへと本当なものを目指しておるんですけれども、ん、その本当なものをですね、私はこの求めていっておるという事ですから、まぁあ、現在の本当なら嘘ではなくてもです、私共がこういう例えば姿勢を忘れていない限り、まぁ神様は顔を立てて下さる。
 おかげを下さるでしょうけれども、私共がこれがもういかにも出来上がった、本当なものであるといったようなそれこそ椛目の総代でございというようにしてですたいね。肩で風切るようなあり方でも、もし毎日あったとしたらそれこそおかしい。今日のその映画じゃないですけれども、満座中で恥をかかなきゃならない。化けの皮をひんむかれてしまうようなおかしな結果になるんじゃないかとこう私は思います。
 勿論それが、どこまでが本当な物という事はそれは分かりませんけれども、ね、ただ今日、栄四郎を今度担当しておられる先生が、この前からその直子を受け持って、ね、幹三郎を受け持って、3人続いて家はその先生に習った、何かという先生が見えられたんですが。もう先生この頃、私来た時に、先生があの自然、もう私の方の子供は取り分けて、さぁ勉強をやれとさせようともしませんから。
 先生方どうぞよろしくお願いしますというような事をお聞きしておったが、今度もあの、浮羽高校に入試の時に、直子は大体難しかろうという先生方のめどが、だったらしいんです。ですから勿論あの、まぁ先生方に、まぁそれは言うて良いかどうか分からんけれども。色々家庭から出来るだけの事はしといて下さいといったような、話しがどこにもあったけれども、金光様だけはもうそういうことは絶対しなさらんから。
 というてお話しもしなかって、実は内心心配しておりましたが、見事にパスされてから、もう本当にあの成り行きという事を、その大事にしておられるという、先生の信心というものをですね、改めて感じたといったような事をいうておられましたがね。まぁそういうような風にして、顔を立てて下さってあるんですけれども、私共のこの思いあがりがな、思いあがった時にすでに、皆が偽物になってくるだろうと。
 例え本当な物じゃなくてもです、本当な物から本当な物へいよいよ極め、求めて行くという姿勢があるならばです、私共は神様が何時の場合でも顔立てて下さるんじゃないかという風に、私は感じるのです。今日一日の熊本あたりからの団体参拝があったり、先生方がこうして見えたり。ならそこんところ、本当にあの忙しいのに、いやそれがもう今日は忙しかったんですけれども、先生もうゆっくりして頂いていいんですよ。皆さんが今帰られて、今実は表に送り出ておるところへ先生が見えたんですから。
 本当に神様のご都合って何時もこんなですから、恐れ入ってしまいますと言う様な事を私は申しましたら、まぁあの実際を持ってお話しをするから、それを解られるんですよね。神様が顔を立てて下さるんですよ。それはなら私が決して偽物ほんなもんじゃない。けれどもです、ならこれで良いと何時も思っていない。愈々本当な物を目指して。私が精進させて頂いておるそこだけは本当なんだ。だから信者の皆さんだってそう。中には合楽の誰々で御座います。というて合楽といや、皆がこう最近では。
 はぁ合楽のご信者さんですかっていうてその、まぁ提起をされる位にこの頃合楽の名がいわば売れて来た。だからそれに載ってまぁ図に載る様な今年よると、愈々の信心試された時にです、本当に満座の中で今日の偽物の(話?)じゃないけれども、合楽の信心そのものまでが偽物と言う様な事になりかねないのでございますから、おかげ受けなきゃならん。愈々本当なもの目指しての信心にならなければならんという事ですね。
   どうぞ。